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赤ポスの随力筆喜

85・報恩抄愚釈(5)

 一切経の心 つまり仏の一番伝えたかったこと を知る為に一つの願いを立てようと大聖人は胸中で決心されます。

それは①~⑩宗の偉いさんには従わずに、あえて言えば、天台が経文を師匠として一切経の勝劣を考えたように、一切経を開き観てみれば、涅槃経という経のなかに、「法に依って 人に依らざれ」とある。
「法に依って」とは「一切経に依って」ということで、「人に依らざれ」とは仏以外の普賢菩薩や文殊師利菩薩や①~⑩宗のもろもろのいわゆる「人師に依らざれ」っていうことだ。
また、この涅槃経のなかに、「了義経に依って 不了義経に依らざれ」とある。
了義経とは最高の生命の極理が説かれている経ということで、万人が仏の生命を備えていると説く法華経のことだ。
不了義経とは法華経以外の経のことで、生命の究極を説き尽くしていない法華経以外の一切経のことだ。
これは相対概念のことで、小乗よりも大乗が優れているとか、権経よりも実経が優れているという相対概念のことだ。
生命根本・人間根本の凡夫成仏の道を説き尽くした法華経こそが了義経。それ以外の過去現在未来の一切経は不了義経。
そうすると、この仏の遺言を信じるならば、もっぱら「法華経」こそが明鏡であり、一切経の心ということだ!^o^/




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  1. 2010/10/01(金) 00:00:00|
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87・報恩抄愚釈(6)

 この仏の遺言を信じるならば、「法華経」こそが明鏡なんだ と知ることが、一切経の心を知る ということだ。

その法華経を開き見ると、「この法華経は諸経の中において、最もその上にあり」とはっきりと経文にある。
この経文を拝せば、須弥山の頂上に居る帝釈のようなものであり、また転輪聖王の頭上の如意宝珠のようなものであり、また衆木の上に照る月のようなものであり、また諸仏の頭の上の肉髻のようなものであるがごとく、この「法華経」は華厳経や大日経や涅槃経などもろもろの一切経の頂上の如意宝珠なのである。
\^o^/





  1. 2010/10/09(土) 00:00:00|
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88・報恩抄愚釈(7)

 なので、仏以外の発言や主張をまず捨てて、仏自身が説かれた経文を根本に拝するならば、大日経や華厳経やその他もろもろの一切経よりも、「法華経」が一番勝れているということは、あたかも、太陽が晴天に出たら、天地が見渡せてハッキリ一望できるようなものだ。

また、大日経や華厳経などの一切経を見てみれば、この「法華経は諸経の中において最もその上にあり!」という経文に相似している経文は法華経以外の一切経には一字・一点も存在していない。

法華経以外の経は法華経を説く為の権(かり)の教えなので、あるときは、小乗経に対して、それを破折するために大乗経という立場から大きなくくりで勝劣を説いている。またあるときは、世間の法に対して、仏法という生命の法を説いている。またあるときは、一切は大宇宙に冥伏した空だ。いやいや見える姿こそ真実だ。と空諦や仮諦に対して、空諦とも仮諦ともどちらか一方に決定付けられない。しかしどちらかの立場で現れる。という生命中道の立場で説いたりしてきた。

例えば、小さな国の王が、大国から見れば小王なのに、小国グループの者に対しては俺はこの国の大王だ。と言ってるようなものである。

「法華経」は諸々一切の王に対して大王・王者なり。

【経王なり!】
【法王なり!】
【此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り!】

【仏自身の宣言なり!】
\^o^/





  1. 2010/10/11(月) 00:00:00|
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90・報恩抄愚釈(8)

 【法華経は諸王に対して大王】である。諸経に対して経王である。諸法に対して法王である。と仏自身が明確に宣言しているのである。^^

 ただ、涅槃経の中にだけ法華経に相似している経文がある。''
このことに天台出現以前の南北の諸師たちは迷って勘違いしてしまい、「法華経は涅槃経より劣っている」と言い出した。
`ε´

だけども、諸師の言い分にとらわれずに、経文を根本にしてよくよく開き見てみると、あの無量義経が華厳や阿含や方等や般若などの四十余年の経々に対して、「四十余年 未顕真実」(四十余年間、未だ真実を顕していない)と明確に破折して、その後「無量義は一法より生ずる」と言って法華経を説き始めたように、この涅槃経の中ででも、華厳や阿含や方等や般若などの四十余年の経々をあげて我が身が勝ると説いている。
(この相似に諸師が迷って勘違いした!)

その法華経と涅槃経の相似を解決するために、さらに涅槃経の経文を見てみると、「是の経の出世は乃至 法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に 所作無きが如し」(この涅槃経は、法華経の中で八千の声聞たちが成仏の記別を受けて実りを得たので、秋の収穫を終え、冬に貯蔵するように、この涅槃経の時に収穫するのではない。することが無いようなものだ。)
方便として涅槃を現じていく釈迦仏とこの涅槃経は法華経には劣る。【法華経が優れている】と涅槃経自身が明確に宣言している経文である。
このように、経文ではハッキリと明確になっていることに対して南北の大智を謳う諸師・諸人たちは迷って勘違いしている経文なので、末代の仏法を学ぶ方々はよくよくこの点において眼を留め、把握しておくべきことであります。
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  1. 2010/10/22(金) 00:00:00|
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